日本の文化にも磨かれ、歴史を重ねてきた時計ブランドとして、できること。

スイス時計屈指のマニュフアクチュール・ブランドとして知られるジラール・ペルゴは、幕末期の1861年、日本に正規販売代理店を開設した最初のスイス時計という史実を誇ります。当時、来日したフランソワ・ペルゴが、横浜の地で若くして逝去するまで10年以上も揺籃の極東の地に滞在したのは、伝統的な日本の文化や揺るぎない美意識に魅了され続けたからでしょう。驚きに満ちた彼の体験は、しばしばスイスの工房に伝えられ、ジラール・ペルゴの時計作りにも影響を及ぼしました。

人類史上未曾有の自然災害のひとつと言うべき東日本大震災が発生してからというもの、私たちはジラール・ペルゴとして被災地のために何ができるかを考えてきました。できれば義援金を送るといった一時的なものではなく、長く継続的に東北の復興に寄与していきたい……そんな思いを巡らせていたとき、被災地で支援活動を続ける「つむぎや」の若者たちと出会い、彼らから興味深い情報を得ることができました。

それはいくつかの被災地で、ものづくりをきっかけに復興を目指す動きがはじまっているというものでした。その後、各地の活動事例にふれ、宮城県石巻市の制作現場を訪ねた際にはものづくりに取り組む被災地の人々の真剣な姿勢に心を打たれました。その様子は、ジラール・ペルゴの職人たちの工房のそれに重なるものでもあると感じました。

歴史を揺るがす大きな事件や現象を経験すると、人はそれを振り返って「あの時、どこで、誰と、何をしていたのか」と、直接的・間接的な体験を語り合うものなのだと、最近強く感じるようになりました。東日本大震災によって引き起こされた数々の出来事を風化させないために、そして後に続く世代によりよいものが継承されるためにも、私たちは「あの時」に感じたことを忘れてはならないのだと思います。しかし時間とともに被災地に関する報道機会は減り、それとともに私たちの意識も薄れていきがちです。そんな状況に一石を投じたい……「ジラール・ペルゴ 東北マニュファクチュール・エイド」はそんな思いを具現化するべくスタートしたプロジェクトです。そしてその活動の第一弾として、つむぎやの若者たちによるWEBサイトメディア「東北マニュファクチュール・ストーリー」の運営をサポートしていくことにしました。

このメディアをきっかけにものづくりの現場に関心を持つ人が多くなったり、新たなものづくりの現場が生まれたり、かけがえのない出会いが訪れたりしたらいいのに……と願いは尽きません。でもあせらずじっくり3年、4年、5年と被災地のものづくり(東北マニュファクチュール)と向き合いながら、ジラール・ペルゴならではの価値ある東北支援を実現していけたらと考えています。

まずは「東北マニュファクチュール・ストーリー」から。これからも「ジラール・ヘルゴ 東北マニュフアクチュール・エイド」の活動にご注目ください。

ソーウインド・ジャパン株式会社
代表取締役社長
岡部友子

ジラール・ペルゴについて

ジラール・ペルゴは1791年まで起源を辿ることができるスイスの高級腕時計メーカーであり、時計の心臓部である機構の組み立てを含む、企画から製造までを一貫して行うという数少ないウォッチメーカー(マニュファクチュール)のひとつです。
ブランドの歴史は、時計師のフランソワ・ボットがジュネーブに創設した時計工房から始まりました。創設者のボットは、時計製造の技術を、一つ屋根の下に結集するというシステムを採用し、時計産業と文化の両面で計りしれない価値を持った遺産をもたらした人物でもあります。

その後、時計師のコンスタン・ジラールと時計商の娘マリー・ペルゴが工房を引き継ぎ、フランスの国境から4kmほど離れた標高1000mにある都市ラ・ショー=ド=フォンに本拠地を移しました。山間の小さなコミューンであったこの街は、世界に先駆けて都市計画を採用したことでも知られ、伝統的な時計製造業と結びついた都市計画が評価された産業遺産として、ユネスコの「世界遺産」に指定されています。

優秀な時計師であったコンスタン・ジラールは、複雑時計「スリー・ゴールド ブリッジ トゥールビヨン」を制作し、1889年のパリの万国博覧会で金賞を受賞しました。革新的な技術と素晴らしいデザインが融合した伝説的な「スリー・ゴールド ブリッジ トゥールビヨン」は、その後も数々の作品に引き継がれ、ジラール・ペルゴの象徴になっています。
スイス時計の素晴らしさが世界中に広まりつつあるその時代に、マリー・ペルゴの実弟フランソワ・ペルゴは、新たな販売市場を開拓するために日本へ渡り、1861年に初のスイス製時計正規販売代理店を横浜に開設しました。当時、『不定時法』という時刻法を採用していた日本での西洋時計の販売は苦難を極めましたが、鉄道の敷設など、西洋の新しい技術が広まるにつれ『定時法』が重要視され、西洋の時計は徐々に広まっていきました。フランソワ・ペルゴは、1877年にその生涯を終え、今もなお第二の故郷である横浜の外国人墓地に眠っています。

ジラール・ペルゴは、20世紀になると、高振動のムーブメントを搭載した腕時計の量産に世界で初めて成功し、また、1969年には時計用クォーツの開発、その時に定めたクォーツの周波数32768Hzは、世界規格となりました。今日では80以上もの特許を取得しているジラール・ペルゴは、2世紀以上にわたって培ってきた伝統的な時計製造技術を守りつつ、最新テクノロジーを取り入れた革新的な技術開発を積極的に行っています。